全ての人にそういうことが起きるとまでは言わないけれど、
自分の人生には何度か分かれ道なのかな?みたいな瞬間があった。
八年前の二月二日、友達とシェアして住んでいた家が全焼した。
文章にするとたった一行で終わってしまうけれど、
この火事がその後の生き方を大きく左右したわけです。
初めに言っておきますがこれは悲劇的な話ではありません。
幸い死傷者もいないし隣近所にも飛び火もせず、
終わってみれば数々の笑い話を残した記念碑的な火事。
更に簡単に言ってしまえばこのあと僕はフルタイムの歌唄いにシフトし、
個人名義のアルバムを作り歌を唄いながらの旅を始めることになるわけで。
もういい加減時効だと思うのでやっとあの日の事を書いてみようかな、と。
建物の全壊は免れたものの、二階の僕の部屋は見事に燃えた。
燃えたものを列挙するよりは残ったものを並べたほうが早いくらい、
本当に様々なものがこの火事で手元から消えてなくなった。
二階の現場から出て来たものと言えば、
ケースに入っていたのが幸いして燃えなかったものの、
放水を浴びビショビショになった'64Martin D-18と、
燃えてはいたものの原形をとどめていた'78FenderのTelecaster、
AcousticCampの看板も焦げてはいたけど助かったし、
しまってあったミニカーが30個くらい焼けかけで出て来た。
あとは全部消えました。
中には取り返しの付かないものもあるわけです。
いつか伝える時が来ると思って、
産まれる前から子供達に宛てて書き続けていた日記とか、
お金では二度と買えないものもあるわけですが、
師匠伊太地山伝兵衛のNHKホールライブの一週間後だったこともあり、
預かっていた資料も物販品も一緒に無くなってしまい、
これはちょっと困った事になったなぁなんて呑気に思ってたなぁ。
ただ、さしあたり悲しいとか悔しいとかよりも、
単純に「不便」だったことを思い出します。
その時着ているもの以外の服がないし、
なにしろ寝る場所がない。
ほぼ身体ひとつ。
これはもう強制的なデトックスというか何と言うか。
だけどモノが無くなった代わりに、
周りで支えてくれる沢山の人が居る事を教えてくれた火事でもありました。
いろんな方から洋服を頂いたり全国からお見舞いを届けて頂いたり、
中でもドラマーの林立夫さんから頂いた洋服は見た事もないブランドばかりで、
一時は火事以前よりも龍麿がお洒落になった説とかも囁かれていたとか。
その後、どうやって生きてくのか心配して来てくれた師匠に、
本気で歌を演りたいと相談していた時に、
「お前さぁ、幾つになったんだよ?今からじゃキツいぞ?」
「はぁ、でも他にやるべきこと、無いような気がして」
「だって10年はかかるよ、金入って来るようになるのにさ」
「じゃぁ半分で出来るようになんとかします」
「馬鹿!どうやるんだよ?」
みたいなやり取りもあったな、あった。
とにかく人に助けてもらうって行為、
もうそれ以外に方法がなかったって言うのもありますが、
あんなに沢山の人に助けてもらったことは、
ある意味それまでの人生観にはなかった出来事で、
どうやったらその恩を返せるんだろうか。
それがその後の生き方のひとつの指標にもなっていくんですね。
結局、モノはモノだということ。
なんかあったら燃えて消えてしまう。
もっと大切な、普段目に見えないことは、
これくらいの事件が起きないと僕は気が付かなかった。
周りに居てくれる人の心持ちとか、
多分、気が付かなかったんじゃないかな。
火事後のごたごたで疎遠になったりもした一緒に住んでた友達とも、
紆余曲折あり今では普通に付き合える仲でいられるし、
本当に色んなことに気付かせてくれた火事でした。
それ以降、今の様な歌う生活を続けて来ているのですが、
それが続いているのも結局は周りに居てくれる人、
現場に呼んでくれる、全国の人達のおかげな訳です。
感謝ってさ、難しいよね、日常の中だと。
忘れないようにしたいし、忘れちゃいけないと、
自戒の念もあって書いてみました。
ありがとう、みんな。
僕は元気に歌唄いを演っています!
ギター十数本、
コンピューター五台、
その他諸々、よく焼けました。
CDは全部溶けてくっついちゃうんですね。
レコードはね、特に良く燃えます(笑)
この現場からギターが出て来たとしたら、
運命的なものを感じちゃってもしょうがないでしょ。
これはTelecaster修復中。
配線は無事だけどネックは焦げてるね。
何が大変だったって、
焦げを落とすのが一苦労だったと、
故亀井さんがブツブツ言っていた。
現在このギターはKajicasterとして復活。
冬場は乾燥してますからね、
皆さんも火の元にはくれぐれも注意して下さいね。
じゃぁまた!